地域経済の再生

先日市長と酒席で2時間ほどお話を伺う機会がありました。首長が何を目指しているのか分かったのは収穫でした。

盆地では農地の開発、工場跡地の開発、市庁舎跡地の開発などの話が進んでいるようです。

私たちの牧丘はある面で日本の縮図であり8割が森林で優良な農地は少なく東南斜面が有利なブドウ栽培を産業として得るまではコメが獲れないために林業や加工して売れる木工品などに注力して技を磨いていたようです。

ここの人たちは職人・商売人の気質に溢れていますから社交的です。

甲州人全体で日本一社交的なのだそうです。

盆地の真ん中は信玄が治水を行うまでは農地にならず人が水面を行き来することの方が商売になったのだと思います。

甲斐とは私は「交い」の当て字ではないかと考えます。

甲斐の斐の字は綾を成すという意味ですから人の交流が盛んであったことを汲んでの文字ではないでしょうか。

古代からここの盆地元の水溜りには南から北から西から違う民族が進んできてここに留まったようです。

また民族のみならず大陸も3方から押し寄せています。

ユーラシアプレート、北アメリカプレート、そしてフィリピン海プレートです。

武田信玄の功績はこの人々の交わりを実に濃密に盛んにしたことです。

盆地の真ん中が使えるようになったときの悦びと驚きはこの国をひとつにしたのです。

甲斐の国は江戸時代に幕府直轄地になります。

軍事上重要であるばかりでなく産業面ではない面で特殊な国だったはずです。

その特殊性は江戸時代が終わり明治になった時に現れます。

甲斐の国には民の間に独自の助け合いの制度がありました。

他の穀倉地帯を抱える国には及ばないものの豪農は存在していて持てる富を以っていち早く新しい都で商売を始めたのが甲州財閥と言われた人たちでした。

土着の殿様がいなかった分す速い動きができたと言えます。

土着の殿様は武田信玄が最後で最高でありその後は真ん中にシンボルとして祀られるだけのカリスマを持った人物は出なかった。

勝頼がなぜ滅んでいったのか。盆地の真ん中を農地に変えるだけの仕業を示せなかったからでしょう。

真ん中を空にしながら生きて行くには下層民の自治が必要になります。

ですから甲斐の国は保守と思われがちですがリベラルの色も強いのです。

中央にべったりの様子が出てきてからこの甲斐はおかしくなったと感じます。

人口が減り働きは中央の資本に吸い上げられというように。

甲斐の東側は農業地域ですから極端に他の資本にやられている感じはありません。

農地法が守っているとも言えます。

しかし経済は活発とは言えません。

インフラ整備で潤うようなところがあります。

甲州財閥を成した人たちの事業は時代が深まるにつれてより大きな資本に吸い取られて行きました。

山梨にはいまでも都市銀行は進出しておらず資本的には独自の体制があります。

そういうものが今後吉と出るのか凶と出るのかは分かりませんが必要なものは独自の生活様式であるという確信はあります。

その下地はすでにと言うかこの土地に根付いて引き継がれているのは感じますのでまずは立上げに成功するでしょう。

外の資本で開発するという手法は開城に等しく殿さまを他所にいただくということです。

現市長が資本と労働力をどこに求めているかまでは知れませんでしたが国内で賄わなければ失敗します。

真ん中を祝祭のシンボルに変えられれば長い任期になるかも知れません。

いまところその真ん中に牧丘・三富は加われていないようでもありそれはまた私たちのチャンスとも捉えました。

まだ打って出る暇がある。

牧丘・三富にはまた独自の真ん中を立てる

目論見を動きを作って無視できないようにして行く。

そうした方が地域の活性化経済の再生再構築への道筋が誰にも見えるようになると思います。

新しいものを始めるときには誰もが交るお祭りが要る。

そういえば盛ん過ぎて卑猥過ぎて禁止された道祖神祭礼というものが明治初期までありました。

あれを残して置いたらいまどきどんな観光コンテンツになっていたことか。

甲斐の国はお祭りを取り戻す。

それは何になるかまだ分かりませんがそこから再生が始まります。